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スバルの社名が坂東太郎になるところだった!?

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富士重工業本社建物

こんにちは、スバルショップ香取です。

スバルのオフィシャルサイトにはいろんなコンテンツがあります。

その中にスバコミというスバルを楽しむ仲間がつながるコミュニティがあり、生活のワンシーンにスバルをプラスした、スバルライフの楽しさをみんなで共有できます。

 

スバルのイベントや、スバル車のことなど面白い情報がたくさんです!

その中にこんなものを見つけたので、フェイスブックページに投稿してみました^^

フェイスブックページの投稿

富士重工業が初めて作った小型自動車の名前を決めるときに社内公募したときに「坂東太郎」というものがあったそうです。

この時選ばれたのがスバルだったので最終的に商号にも採用されました。
このトリビアを書いた私が気になりなりすぎて色々調べてみて、なるほど―な結果になりました。

千葉県香取市にあるスバルショップ香取は利根川と言えば坂東太郎というのは常識なのですが、利根川流域以外の地域にお住まいの方はなんでやねん!

とお思いの方が多いと思います。

何でそんなトリビアが出てきたか、ということと、スバルと坂東太郎のつながりをひも解いていきたいと思います。

スバルが坂東太郎になりそうだった話

スバルオフィシャルサイトのスバコミにあるトリビアが面白ーいと思ってフェイスブックページで紹介したのですが、あまりに唐突な内容なので反応はいまいちだったようです。

書いた本人的には衝撃的だったんですけどね。

だから、調べたくなってしまったのです。

SUBARUのお店が利根川沿いにしかないわけではないので、社名の社内公募で坂東太郎が出てくる理由はありません。

ということで、スバル株式会社と坂東太郎の関係を探っていきましょう。

そもそもスバルという社名の由来

株式会社SUBARUとなったのは意外と新しく、2017年4月1日付で富士重工業株式会社から臨時取締役会の決議経て変更になりました。

もともとは、SUBARU(スバル)は富士重工業株式会社の自動車製造部門・航空機製造部門のブランド名だったのです。

スバル360

出典:wikipedia スバル360

量産し一般に販売された初めてのブランドとしてのスバル車はスバル360ですが、実は1954年に日本製乗用車として初のフル・モノコック構造を採用し試作されたスバル・1500が初めてスバルの社名の使われた小型自動車なんです。

しかし、何やら事情があって市販はされませんでした。

ちなみに、スバル・1500開発時のコードネームはP-1です。

P-1にスバルと名前を付けたのは初代社長の北健治氏です。

「スバル」の名のもとになった、和名がすばるのプレアデス星団は肉眼で大きな6つの星が見えることから「六連星(むつらぼし)」と呼ばれています。
スバルロゴ
富士重工業株式会社は6社が合併して設立された企業で、大きな円の中に六つの星が並ぶロゴはその象徴として描かれ、ブランド名にも反映されました。

ここからスバルというブランド名が広く浸透し、社名になるまでに至りました。

株式会社SUBARUの前身の企業は凄い

富士重工業株式会社とは?というところから話しますと、第二次世界大戦後に、富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧本社)、宇都宮車輛(宇都宮工場)が出資し、富士重工業が創立されました。

その翌年、富士重工業が出資をした5社を吸収合併する形で1つの会社になり、六連星のスバルのロゴが象徴する6つの会社が1つの大きな円の中にあり光輝く形になりました。

富士重工業本社建物

出典:wikipedia SUBARU

この企業は航空機生産を事業目的としていました。

第二次世界大戦後日本初のジェット機T-1練習機を開発し初飛行に成功したり、みんなが知っている超有名なジェット機ボーイング777やボーイング787の開発に携わったり航空宇宙開発事業で大活躍しています。

他には鉄道事業や風力発電、産業用の動力開発にも力を入れていました。

とにかくエンジン系の開発力が半端ない!という印象ですが、なんでこんなに強いのでしょうか。

さらにその前の前身企業がすげぇんです。

さらにその前はもっとすごい中島飛行機株式会社

中島飛行機本社 当時の写真
出典:wikipedia 中島飛行機
この中島飛行機株式会社が富士重工業株式会社の祖です。

1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカーで中島知久平氏が創立しました。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーにまで上り詰めたすごい企業だったのです。
この、エンジンの開発を独自に行う能力っていうところが今のスバルにもつながっていますね。
一式戦闘機 「隼」、1942年(昭和17年) 、 二式戦闘機 「鍾馗」、 四式戦闘機 「疾風」などを開発し、1927年から1945年までに日本で生産された戦闘機3万578機のうち、半数以上の1万6763機が中島飛行機が開発したものでそのすごさが伺えます。
中島飛行機 隼

出典:wikipedia 中島飛行機

GHQが軍需産業への台頭を恐れ財閥解体の際に中島飛行機の工場ごとに12社にも分割されてしまいました。

その後、航空事業への進出を目指す中島飛行機系の企業が集まり上述の富士重工業の設立への動きが始まります。

そこから見える坂東太郎とのつながり

で、中島飛行機の発祥の地である群馬県尾島町(現:太田市)こそが坂東太郎とのつながりとなる利根川沿いにあったのです。
1917年(大正6年)12月に中島飛行機が誕生しました。

創始者である中島知久平氏は尾島町から太田町(現太田市)の金山の麓、大光院(俗に呑龍様)に隣接した旧博物館を借り、正面玄関には横15センチ縦30センチほどの小さな「飛行機研究所」の看板を掲げたのです。

これがすべての始まりになりました。
そして、この飛行場の滑走路は利根川沿いにあったと言われています。
ここで世界有数の航空メーカーになるための種がまかれていたのです。

中島飛行機 場所

 

この利根川は日本三大暴れ川と知られ、坂東太郎と呼ばれています。

余談ですが、他の2河川は九州の筑後川で筑後次郎、四国の吉野川で四国三郎とされています。
何で坂東かというと、7世紀に設立し1590年に小田原城が落城するまで政治の中心だった相模国を起点に、足柄山・箱根山以東を坂東と呼んでいたことが由来と言われています。

利根川は坂東随一の河川であり、日本の河川の長男として「坂東太郎」と呼ばるようになり、今日に至るまで親しまれています。
中島飛行機の発祥の地のある太田市の「太田市かるた」には、坂東太郎や中島飛行機のことを読んだ札があることから、この町にとってどちらも大変大切なものであったことが分かります。

なので、富士重工業の初めて開発した車の名前を決める際に、社内公募で地元になじみの深い「坂東太郎」がノミネートされたのかもしれません。

スバルが坂東太郎になるところだった話のまとめ

LEVORG パールホワイト

このトリビアの由来は、株式会社SUBARUの始祖 中島飛行機発祥の地である太田市を流れる利根川と地元愛が由来だったと考えられます。
スバルの水平対向エンジンへの強いこだわりと技術力は中島飛行機の頃からのスバルの魂とも言えますね。
自動車メーカとしてだけでなく、航空宇宙開発事業や環境技術、住宅事業など幅広く展開する株式会社SUBARUから目が離せません♪

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